あれは念願の新築マンションに引っ越して初めての夏を迎えた頃の出来事でしたが浴室の壁に一匹の小さな黒い虫が止まっているのを見つけた時から私の平穏な毎日は一変しその執拗な出現にノイローゼ寸前まで追い込まれることになりました。最初はどこからか迷い込んだだけの迷子だと思いティッシュで取り除いて済ませていましたが数日後には二匹、さらに一週間後には浴室だけでなく洗面所やトイレにも姿を現すようになり気づけば毎日五、六匹を退治しなければならない異常事態に発展しました。私は潔癖症なところもあり毎日排水口に市販のパイプクリーナーを流しタイルの目地をブラシで磨き上げていましたがそれでもチョウバエの発生は止まらず一体どこが発生源なのかわからず途方に暮れる毎日を過ごしました。夜中に電気をつけた瞬間に壁を這う黒い影を見ては悲鳴を上げいつか寝ている間に顔の上を歩かれるのではないかという妄想に駆られ不眠症に近い状態に陥ったのです。あらゆる殺虫スプレーを試しましたが効果は一時的でまるで私の努力を嘲笑うかのように次世代が湧き出してくる様子を見て私は自分の住まいが目に見えない闇に侵食されているという深い絶望感を感じました。そんなある日、ふと思いついて普段は一度も外したことがなかった浴槽の側面カバーいわゆるエプロンを勇気を出して取り外してみたところそこには想像を絶する光景が広がっており数年分蓄積されたと思われる不浄なヘドロの山の中に無数の幼虫がうごめいていたのです。私の磨き上げた浴室の表面の下にはチョウバエにとっての巨大な王国が隠されていたという事実に愕然とし私はその日のうちに高圧洗浄機と強力な塩素系洗剤を買い込み数時間をかけてその死角を徹底的にリセットしました。ヘドロを一滴も残さず洗い流し仕上げに熱湯を浴びせると翌日からあれほど悩まされていたチョウバエの姿がパタリと消え去り、私はようやく自分の家に対する主権を取り戻したことを実感しました。この経験を通じて私が学んだのはチョウバエという虫は人間の死角を突く天才であり発生源がわからないのではなく自分が見ようとしていない場所にこそ彼らの城があるということです。今では月に一度必ず家中をパトロールし隙間をパテで埋めるなどの対策を徹底していますがチョウバエとの戦いを通じて手に入れたのは単なる清潔さだけでなく自分の住まいを隅々まで把握し管理するという主権者としての自信であり、あの黒い影は私に住宅管理の真髄を教えてくれた厳しい教師だったのだと今は静かに振り返っています。
チョウバエとの孤独な戦いと勝利の記録